氷河期世代の生き直し

未だに迷う氷河期世代に

45歳。主婦歴19年の末路。

 年末に、とうとう45歳になった。

 

 思えば、2022年は激動の年だった。漢字一文字で表すなら「別」って感じ。

 

 実父が、ガン闘病10か月で亡くなったのは2月。アル中で暴言暴力のすさまじかった母の代わりに、私に優しかった父。

 

 父の悪口ばかり言って、口を開けば「もう嫌だ、離婚したい。子どもがいなければ離婚したのに」と言っていた母は、長年の過剰なアルコール摂取のせいで脳が委縮し、すっかり狂人のようになった。

 

 遺産も、北海道の片田舎の土地とアパートしか残っていない。現金なんて父のガン治療でなくなってしまった(らしい)。面倒くさいし、私に虐待をしてきた母の面倒なんて見るつもりなんてさらさらない。だから、全て放棄した。

 

 たった一人の妹(愛玩子)は母の言いなりで私との相性はすこぶる悪い。しかもメンタルを病んでいるとかで働く気もないらしい。これ以上付き合う必要はないし、介護でもなんでも好きにやればいいのさ。こちらに火の粉が降りかからなければそれでいい。

 

 これまで、曲りなりに付き合いを継続してきたのは、父がいたからだ。父亡き後の実家の事も、地元も、私にとってはどうでも良いことになった。

 

 正しくは、どうでも良いことにできた。というのが正しいかもしれない。

 

 長かった。言い方は悪いが。

 

 こういうことでもないと、断ち切るきっかけがなかったんだもの。やっと、やっと自由になれる。

 

 ということで、自分の新たな人生。つまりこのブログのタイトルにある「生き直し」について、本腰を入れて考えるようになった。

 

 実際には、数年前から私の人生は少しづつ動いているような気がしていた。

 

 ただの主婦だったのに、ひょんなことからNPOの設立に関わり団体を立ち上げ、理事をやることになったし、その関わりでイベントを企画、運営したり、色んな人に会ったり対話したりして、今まで自分に蓋をしていたものが外れてきたような、そんな感覚に陥ったりして。

 

 今までは自分はどうしようもない人間だと思っていたのだけど、案外普通に生きていけるのかもしれない。そんなふうにうっすらと感じていたのだけど、どうしても自分の実家との関わり…特に父のガン発覚から亡くなるまでのこと。それが上がりかけたテンションを下から引っ張り続けていた。

 

 けど、もう私は実家と関わる必要がない。父が亡くなったのは悲しいし寂しいけれど、その代わりに大きくて頑丈な扉を開けていってくれた気がしている。

 

 私と同世代の人は、親との関わりで悩んでいた人が多いような体感がある。小遣い稼ぎで有料でやっていた悩み相談、そしてSNSやいろんな人との交流で得た体感だが、父親不在で、母親のストレスをぶつけられた人が多いんだなと思う。就職だけではない。家庭環境も氷河期の人が多い印象だ。

 

 なので、ブログを通して、私の無様ともいえる「生き直し」を発信したら仲間が増えるかなーなんて思っている。

たいていの事は努力で何とかなる。〇か×か

 自分が幸せになれないのは、そういう宿命だから。運命だから。
 
 能力は最初から決まっていて、努力ではどうすることもできない。
 
 そう思い込んでいる方は結構多いのだな、と色々な相談事や愚痴を聞いていると実感します。
 
 私も若い頃はそう思っていたから、その気持ちはよくわかるのです。

 
 
 自分が努力したところで父が家に帰ってくることはないし、母のアル中だって治るわけがない。生活できるだけのお金が転がり込んでくるわけでもない。
 
 親の素行の悪さが原因で、とても大好きな人と別れざるを得なかった運命も、私がいくら頑張ったところで変わらない。そう思って、自分の生まれを恨み続けた日々がありました。
 
 プロフィールにも書いたような気がしますが、このまま親の人生の下敷きになってしまうのが嫌で20歳の頃に出奔し、夜の世界へ飛び込んで、半分自暴自棄になり自堕落な生活を送っていたある日、先輩のお姉さまに言われたことがあります。
 
 「恨みつらみを考えているその5分で、爪が磨けるよ」と。
 
 とてもカチンときたことを覚えています。「私の爪が汚いって言いたいの!?」と。しかし真意は「くだらないことを考えている時間を、自分のために使いなさい」というところにあった、という出来事がありました。
 
 そのお姉さまも中々波乱の人生を歩んでいたのですが、私の苦しかった過去の話を「くだらない」とぶった切った。それは、自分の力ではどうすることもできない、いわば「固定しておくことしかできない」事象に拘っている状態を指摘してくれたものでした。

 
 
 さて、話を「努力」に戻します。
 
 その指摘をいただくまで、私は自分の生まれという「どうやっても変えられないもの」にばかり目を向け、こだわっていました。
 
 そしてその時、目の前にある「自分の爪」のことを言われたとしか思えなかったのは、視野が狭くなっていて言われたことの本質を探ることができなかった故の事だと気付きました。
 
 今回はわたしの例ですが、このような場面は往々にしてあるのです。

 それから「自分の努力の方向」についてよく考えるようになりました。
 
 自分にはどうすることもできないこと。確かに頭の痛い問題であるし、大きな重りでもあります。けれど、人生に多少の差しさわりはあっても(私のように両思いでも別れざるを得ないとか)でも、生きていくことには何ら支障もないはずです。
 
 自分で頑張ればどうにかできる部分を探してみる。ただ生きるではなくて、少しでも楽しく生きることを考えてみる。
 
 ダイエットに成功すれば、服やメイクが同じでも全く違って見えてテンションが上がったりします。成長で、人は変わるのです。
 
 少しづつ成長を楽しみ、できた自分を愛でているうちに自分を好きになっていくことができて精神的な余裕も生まれる。それをずっと繰り返していくと、いつの間にか「自分ではどうすることもできない重り」が、少し軽くなったような気持ちになれる。
 
 それを繰り返しているうちに、自分の人生が変わってきたと言っても過言ではありません。
 
 努力を信じる人は、行動を止めないのです。

 最初の問いに戻ります。
 
 たいていの事は、努力で何とかなる。〇か×か。あなたはどう考えますか?